玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼

全文

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玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼

著者 田中 照久

雑誌名 金大考古 = The Archaeological Journal of Kanazawa University

巻 67

ページ 4‑9

発行年 2010‑07‑26

URL http://hdl.handle.net/2297/24941

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位式を見つめる神若しくは支配者の先祖である可能性 が考えられる。

 一方、南基壇を更新する際に、土器 2 点からなる 供物が捧げられ、儀礼が行われた。この建設に伴う儀 礼は即位式と関係する可能性がある。この場合、以下 の 2 つの可能性がある。

1) 新しい支配者の即位に伴って古い建物を覆って新 しい建造物が造られた。

2) 新しい支配者が即位に伴って神殿を新しく建造す る必要があった。

3.今後の課題

 この主神殿に関連して出土した埋葬 2 基とメソア メリカ南東部太平洋側の遺跡を考慮すると、タスマ ル地区 B1-1 建造物内に埋もれている主神殿に王墓が あった可能性が高い。この地域最大の都市遺跡である カミナルフユでは、古典期前期の A・B 建造物のなか から、建造物の基線上に墓がみつかっている(図 3)。

また、B 建造物においては、基線の近くにも埋葬や墓 が検出されている。基線上にある主たる墓と基線近く に配置された墓若しくは埋葬がどのよう関係にあるの かは明確ではない。建造物の基線上にある墓はこの 古代都市の重要人物若しくは支配者である可能性が高 い。

 また、カミナルフユの事例をみると基線より北側に 主たる墓とは別に埋葬が配置されていた。タスマル 地区の埋葬 0 は埋もれた主神殿の中央を通る基線上、

埋葬 1 は基線より北側にある。この状況は A 建造物 より B 建造物に似ている。タスマル地区ではカミナ ルフユなどの先スペイン期の王墓とそれ以外の墓や埋 葬と比較し、古代メソアメリカ史の一部の再構築が出 来ると考える。

参考文献

伊藤伸幸・柴田潮音「チャルチュアパ遺跡タスマル 地区 B1 ‐ 1 建造物南側より出土した供物に関する 一考察」『名古屋大学文学部研究論集』158:13-28,

2007.

(email: [email protected])

玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼

田中照久 1.はじめに

 福井県坂井市を流れる九頭龍川の河口にある三国 湊の沖合い西へ約 37km の日本海中に玄達瀬はある。

玄達瀬は北東に向かって約縦 18km、幅は 7km と細 長く伸びており、周囲の海深は約- 300 m~ 250 m、

最も浅い「中の瀬」は海深- 9 m。もし、海底から 玄達瀬を見上げたら、突如目の前に細長く垂直に近い 巨大な壁が現れ、海面近くまで延びているように見え る。

夏 に な る と 対 馬 海 流 が 入 り、2 ノ ッ ト( 時 速 3.9km)の潮流が浅瀬に当たり、複雑な流れとなる。

越前海岸沿いの人々にとって玄達瀬は「海の米櫃」と も言われる好漁場であり、近年においてはダイビング スポットとしても有名であるが、過去幾度も海難事故 が発生しており、海坊主が現れて柄杓で海水をかけて 船を沈めようとするという伝説がある。

この玄達瀬の海底より、地元の漁師の方が越前焼大 甕などを引き揚げられた (1)。これら引き揚げられた 越前焼は、生産地のある丹生郡越前町からどのように して玄達瀬まで行き、更にどこへ運ばれようとしてい たのであろうか。生産地の様相と流通の両面からその 謎の一部を解き明かしたい。

2.引き揚げ資料

1.1982 年 2 月末か 3 月初旬、越前町の漁師の方 がカレイの底引き網漁中に玄達瀬近くの海深- 270 mの地点より引き揚げた。この漁師の方は、後日越前 岬沖約 64km 海深- 630 mの海底より弥生時代後期 の山陰地方で焼成されたと思われる土器(高さ 33.9 c m)を引き揚げている。(福井県陶芸館蔵 写真1)

(1)越前大甕 高さ 74.7cm 口径 49.5cm 胴径  64.8cm 底径 21.3cm(個人蔵 図 1-4)

大甕は越前ねじたて(紐輪積み)技法により成形、

焼成はきわめて良好でよく焼き締まり、肩に自然釉が うっすらと付着する。筆者が 1983 年 1 月に引き揚 げた方の庭先で拝見した時には、海底の付着物が甕全 面に見られたが、現在はほとんど剥離している。「木」

風の刻文が肩に見られる。

 2.1986 年2月、アマエビ漁中、別の漁師の方が

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金大考古 67, 2010, 田中照久 玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼

玄達瀬近くの海深- 270 mより越前焼大甕を引き揚 げた。大甕の中には甕のほかに擂鉢が入子状になって 多数入っていたが、漁の邪魔になるという理由で大甕 と破損していた甕・擂鉢などは再び海中へ投棄、傷の ない甕 1 点と擂鉢 2 点の計 3 点を自宅に持ち帰えっ た。一乗谷朝倉氏遺跡からは高さ約 95cm ×胴径約 85cm の大甕が多く出土している。入子状に甕・擂鉢 を格納することを考慮すると、海中へ投棄した大甕は この程度のサイズではなかったかと思われる。

(1)甕 高さ 36.9cm 口径 21.7cm 胴径 32.5cm  底径 15.3cm(福井県陶芸館蔵 図 1-3)

 甕はやや粗めの土を使用、越前ねじたて技法により 成形する。焼成温度はやや低く、明瞭な自然釉の付着 は見られない。胴片面の口縁部から底部に向かって3 分の2程に海底の付着物が見られることから、大甕の 中に入り込んだ泥に横倒しになった器体の大部分が覆 われていたと思われる。

(2)擂鉢 高さ 12.3cm 口径 36.8cm  底径 16.1cm(個人蔵 図 1-1)

(3)擂鉢 高さ 12.7cm 口径 36.2cm 

底径 16.4cm( 福井県陶芸館蔵 図 1-2)  擂鉢は、粘土紐を 2 段積み上げた後、ロクロ挽き 成形を行う。9 本を単位とする櫛状工具を使って見込 み部から口縁部に向かって擂り目を付ける。擂り目の

写真1、弥生時代 壷

重なり具合から,蹴りロクロをゆっくり右回転させな がら擂り目を入れたことが伺える。(2)の擂鉢は 13 本の擂り目、(3)の擂鉢は 15 本の擂り目が施され、

いずれの擂鉢にも最後に横方向の擂り目がつく。(2)

の擂鉢見込みには「×」風、(3)の擂鉢見込みには「*」

風の擂り目が見られる。

 (2)(3)の擂鉢とも口縁の一部に海底の付着物が 見られることから、重ねた状態でしかも横倒しになっ た器体の大部分が泥の中にあったと思われる。

 擂鉢に使用痕がないこと、入れ子状になっていたこ と、大甕・甕の口縁部と底部に磨耗痕がないことか ら、船の積荷=商品と考えている。製作年代は、1、

2の資料とも木村編年Ⅴ期-2(1550 年頃 Ⅴ期を 1490 年から 1580 年とし、1.2.3小期に分類)に 該当する。但し、1と 2 の資料が同一船の積荷かど うかは確認できない。

3.生産地と流通

 それでは、引き揚げられた越前焼大甕・甕・擂鉢 の生産地について述べる。

約 200 基からなる越前窯は、12 世紀後半越前町小 曽原支群で始まり、熊谷支群・織田支群、平等支群へ と生産地を分散拡大しながら、15 世紀末に越前町の 平等支群大釜屋の一ヶ所に窯が集中、大規模生産が始 まった。1986・87 年、国立歴史民俗博物館などが平 等支群大釜屋古窯群を調査した結果、42 基の窯を確 認、12 のユニットに分かれていた。各ユニットでも 同時に操業を行っていたことが考えられ、膨大な燃料 が消費されていた(2)。

明応7年(1498)、次のような伐採禁止令がださ れる。「禁制 当社剱大明神領処々山林等狼(猥)剪 取之事、右堅令停止訖、若於于違犯之輩者、可処厳科 者也 仍成敗如件、明応七年九月十六日 景儀(花押)」

(朝倉景儀禁制)。続く同年 10 月 28 日「当社剱大明 神領山林等御造営之外伐取之事、堅令停止訖、……」(朝 倉貞景下知状)が出される。これらの文書は、越前焼 生産拡大の時期に剱神社保有林の無許可伐採が頻繁に 行われたことを示唆していると供に、戦国大名朝倉氏 の力を借りようとした剱神社側の姿も伺える。(3)

また、享禄元年(1528)の剱神社文書には、「平等 釜之口 但一度二九百文也 焼次第ニ参候間不定」「弐 貫五百文 平等山之代」とあることから、年間複数回

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図 1 - 4 越前大甕

図 1 - 1 擂鉢 図 1 - 2 擂鉢

図 1 - 3 甕

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金大考古 67, 2010, 田中照久 玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼

の焼成が想定される操業ごとの窯役と、山野用益の固 定納銭があり、有力社寺「剱神社」が山林・陶土を領 有、越前焼生産に対して一定の銭を貢納させていたこ とがわかる(4)。膨大な燃料と陶土を消費しながら、

Ⅵ期の終わる寛文年間までのおよそ200年間にわた り生産を続けた大釜屋には、陶土を運んだ瓶土道(べ とみち べととは「粘土」の福井方言)が残る。瓶土 道は昭和 40 年代の開発工事によりほとんど消滅した が、平等集落から平等川をわたり尾根伝いに瓶土道は 続いていた。この瓶土道の終点近く、大釜屋の尾根に は平坦面があり住居があったという。大釜屋では、陶 土・柴・杪 ( ほえ 小枝 ) の搬入と大甕・擂鉢など製 品の搬出体制が整備されていたことが伺える。

Ⅴ-3期に比定される大釜屋岳の谷1号古窯は、

全長 24 m、最大幅 5.5 mを計り、容積は鎌倉時代越 前窯の8倍程度になる。窯の大型化により燃料消費 の効率化と量産化を可能にした。中甕・壷をそれぞれ 62 個、擂鉢を 1200 個を一度に焼成することができ た。分焔柱は「岩倉石」と呼ばれる耐火度の高い石を 積み上げ、燃焼室側壁も「岩倉石」で補強している。

1号窯では天井を破壊して床に敷き詰め、また天井を アーチ上に架けるかさ上げ作業を5回行い、長期間一 定の場所で焼成を繰り返していた。

越前焼は、日本海沿岸を中心に流通するが、特に

Ⅴ期になると北海道南部から島根県までの広範囲に流 通する。それではどのようなルートをたどって日本海 沿岸に運ばれたのであろうか。

 「元禄十六年(1703)村々大差出帳 樫津組(以 後元禄差出帳)」に(5)、「平等村之儀は元来地元悪 敷御座候故往古より瓶職仕候(中略)薪買調焼出浦方 并府中福居其他在迄売払候」と記されていることから、

出荷場所として越前海岸ルートと内陸ルートを想定し た。

[越前海岸ルート]

標高約 150 mにある平等支群からは、標高 350 m の別司峠を越えて越前海岸沿いにある道口浦に到着、

日本海沿岸地域へ運ぶルートが想定できる。直線距離 約 5km であるが、山道をジグザクに上り下りするた め、実際にはこの 2 ~ 3 倍の距離を移動することに なる。戦前まで平等集落の人々は甕・蛸壺などを背負 い、道口・厨岸までこのルートを使って運んだ。

標高約 200 mにある熊谷支群からは、標高 440 m

の厨峠を越えて厨浦へ、さらに厨浦から隣接する道口 浦に到達するルートが考えられる。

道口浦へ運んだことを裏付ける文献資料として、

「平等村 瓶置場賃八十匁」を道口浦が得ていること と、「織田瓶 三石入 五十本 四石入百本」などの 記述から道口浦が越前焼の集積場であったことがうか がえる。

 「元禄差出帳」によれば道口浦では、四十石積廻舟 三艘が加賀・能登・越中・佐渡・越後間を往来、ニ十 石積廻舟四艘は、敦賀・若狭・丹後の近距離を往来し ている。積荷のわかる例として「拙者共両浦之儀毎年 為商売 肴 炭 薪 平等甕等積 加賀 若狭 丹後 路廻り候ニ付」をあげておく。(6)

 [内陸ルート]

 織田支群・平等支群から越前町織田字市場へ陸路を 使って運ぶ。市場には小字名「上市場」「下市場」があり、

剱神社と密接な関係がある市が立つ物資の集積地であ った(7)。「土焼瓶並炭薪等城下市町江差出候 牛馬 通路之儀ハ、右織田村地内江相懸リ田中村河岸江持出 候義ニ御座候」に従えば(8)、平等村より織田、鎌坂、

境野、茱原、宝泉寺を通過して「船渡場壱ケ所御座候」

の田中村船着場へ到着する(9)。平等支群から川舟 を使うと想定すると、平等川から下河原へ、下河原か ら天王川を使い江波、広野、境野を通り田中村川岸に 至る。熊谷支群から舟運を利用すると、熊谷川を下り 古屋で天王川に合流、江波を通り田中村川岸に到着す る。

宝暦 10 年(1760)の大畑村明細帳に、「御年貢米 籾丹生郡田中村岸江附出 三国港迄九里半之内四里半 之駄賃……」とあり(10)、田中村は周辺の村々から 三国湊へ向かう物資が集まる場所であった。天王川沿 いにある田中村へは、「チャシ」と呼ばれる舟運業者 が物資の運搬を請け負った。「チャシ」は、日野川は 白鬼女まで、足羽川は天神まで、九頭竜川は鳴鹿まで の舟運の権を握っていた(11)。越前町天王の八坂神 社にある「宝暦十ニ壬午年(1762)六月吉兆日 願 主 三國湊 勾當屋彌兵衛 平野屋惣助」銘の御神燈 は、三国湊と天王川流域の頻繁な通行のあったことを 示唆している。

元亀 3 年(1572)に下向した興福寺の使者の荷物 は「府中より三国まで舟チン」とあり、府中(現・越 前市)から三国までを日野川~九頭竜川の舟運で運ば

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れたことがわかる。また、慶長 10 年(1605)鯖江 市水落神社拝殿建設用材は、三国から北庄までは、九 頭竜川から足羽川を遡上「海賃」を払い北庄(現・福 井市)で陸揚げ、北庄から水落までは陸路、駄賃を払 う(12)。

以上により天王川から日野川へ、そして九頭竜川を 利用する内陸舟運を想定してみた。越前町織田市場よ り三国港までの全行程は約 45km である。

 近世文書も交えて越前海岸ルートと内陸ルートを想 定したが , このルートをそのまま中世の社会に当ては まるかどうかの問題は残る。しかし、陸上交通の未発 達な時代であり、内陸舟運ルートに中世と近世間に大 きな違いはないものと考えている。

さて、ここで越前古窯の分布を見てみると(図2)、

小曽原支群の奥蛇谷・土屋窯は、国成川の両岸に展開 している。上長佐古窯は峠坂を越えて天王川の流れる 江波に至る。熊谷支群は熊谷川の両岸に古窯跡が展開 している。窯の構築場所を選定するにあたり、越前で は陶土、燃料の薪の確保とともに、初期の段階から大 量輸送に有利な製品の舟運を想定していた。馬一頭 が運ぶ荷物は一駄=一石に対して川舟では、20 ~ 40

俵の積載が可能であった。急峻な山道を通り道口浦方 面に至る越前海岸ルートより、舟運を利用して三国湊 へ下る内陸ルートが、有利であった。

三国湊からはどこへ運ばれたのであろうか。鎌倉時 代末期 越前阿須羽神宮寺勧進聖越後房が関銭免除の 特権をもつ若狭国三方寺内志積浦廻船に関米六石を徴 収しようとした(13)。関米は一石につき一升の徴収 であることから、600 石積の大型廻船が入港してい たことがわかる。

嘉元 4 年(1306)北条氏の直轄地、津軽十三湊の 船関東御免津軽船 20 艘のうち大型船一艘を三国湊の 五朗三郎入道らが襲撃する事件が起きる。これらの大 型船は年貢米を積んで東北から敦賀津間を往来する船 であった。(14)。このような大型船が三国湊に入港 していた。

次に敦賀津・小浜津の状況について少し触れてみ る。文永 7 年(1270)越前国藤島荘の年貢米 1680 石が川舟で九頭竜川を下り三国湊に運ばれ、大船に積 み替えられて敦賀津で陸揚げされた。敦賀津の得分 は 17 石弱(積荷の 1%)、ここからは馬借の手によ り敦賀津から越前国山中峠を越えて、三・四日後(馬

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金大考古 67, 2010, 田中照久 玄達瀬海底から引き揚げられた越前焼

440 頭利用と仮定)に琵琶湖北岸の海津に到着する。

琵琶湖上を船で大津まで行き、大津から馬借を使って 京に到着する(15)。敦賀・海津間の馬借の取り分は 問丸の荷揚げ料を含み 336 石(積荷の 20%)であった。

敦賀からは疋田で分かれて塩津へ至る経路もある。若 狭国では小浜津からは琵琶湖西北岸の木津に至る道が あり、平安時代には気山津から木津へ向かった。

周知のとおり津軽・越後地方から敦賀津→琵琶湖→

京都、北九州・出雲地方から小浜津→琵琶湖→京都と いう日本海沿岸地域から年貢米を京都へ運びいれる東 西 2 ルートが古代からあり、敦賀津・小浜津はまさ にターミナル基地であった。このように円滑かつ頻繁 に行われた日本海物資流通ルートを利用した下り荷と して越前焼は扱われ、日本海沿岸各地へ運ばれていっ たのである。

また、16 世紀の敦賀津に独占的な営業権を持った 川舟座・河野屋座があり「かわふね方 しほあい物 の注文 わかさ・たんごにてあきないの時 公事銭 六十二文……」等の文書から敦賀津を拠点として若狭・

丹後・越前河野浦などを活躍の場としていた(16)。

別司峠を越えて道口浦に運ばれた越前焼は、川舟座・

河野屋座のような短距離廻船業者によって敦賀津・小 浜津および若狭湾一帯・丹後半島へ運ばれたと思われ る。元禄差出帳に記録の残る小型船を使い丹後から越 中・佐渡までを活動範囲とした道口浦、厨浦の廻船業 者の活躍は、中世まで遡れるであろうと思われるが、

今後検討する必要がある。

玄達瀬から引き揚げられた越前焼は平等大釜屋で 焼成、三国湊まで川舟で運ばれたのち、津軽方面に向 かう大型船に積み替えられ出航してまもなく、遭難し たものであろう。この時期珠洲焼に代わって越前焼が 日本海沿岸の東日本を中心に独占的な流通を見せる。

気象情報・通信手段などの未発達の時代、各地の遺跡 から出土する越前焼の流通量と、近世の古文書などに 残る海難事故の記録から推察すると、日本海中には越 前焼を積んだ船が相当数沈没しているいると想像して も差し障りはないであろう。しかし、珠洲焼が能登半 島沖、新潟沖、佐渡沖、山形県鶴岡沖など 17 ヶ所か ら引き揚げられているのに対して(17)、越前焼はこ の玄達瀬以外今のところ海底から見つかっていない。

新たな発見を期待して、越前海岸・若狭湾・丹後半島 など身近なところの海岸部の調査からを始め、越前焼

と海運・舟運の実態に迫りたい。

  引用・参考文献

(1)田中照久「玄達瀬から発見された越前焼」福井 考古学会会誌第 5 号 福井考古学会 1987

(2)吉岡暢康 水野九右衛門 小野正敏 田中照久

「東日本における中世窯業の基礎的研究」国立歴 史民族博物館 1989

(3)高木久史「中世における越前焼の生産と流通」

陶説 593 号 日本陶磁協会 2002

(4)前掲書(3)に同じ

(5)「元禄十六年 村々大差出帳 樫津組」田中甚助 家文書 宮崎村誌別巻 宮崎村誌刊行委員会  1986

(6)「船役銭ニ付願書」青木与右衛門家文書(年不詳)

 福井県史 資料編五 中近世3 1985

(7)「堤遺跡」織田町教育委員会 2001

(8)「慶応三年平等村役人願書」北野宗兵衛家文書  織田町史 資料編 中巻 織田町史編纂委員 会 1996

(9)「宝暦拾壱歳田中村明細帳」笠原伊右衛門家文書  朝日町誌 資料編2 朝日町誌編纂委員会  1998

(10)「宝暦拾歳大畑村明細帳」藤崎嘉右衛門家文書  「朝日町誌 資料編2」 朝日町誌編纂委員 会 1998

(11)「松岡町史 上巻」松岡町史編纂委員会 1978

(12)「福井県史 通史編 2」 福井県 1994

(13)「三国町史」 三国町史編纂委員会 1964

(14)「大乗院文書」小浜・敦賀・三国湊史料 福井 県郷土史懇話会 1959

(15)「敦賀市史 通史編 上巻」敦賀市史編さん委 員会 1985

(16)前掲書(15)に同じ

(17)「珠洲焼誕生」史跡「珠洲陶器窯跡」国指定記 念シンポジウム報告書 珠洲市 珠洲市教育委 員会 2010 

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